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SoflanDaichiのサブログ-ちょっとまじめなInsania-

文字数制限のないTwitter的なノリで、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書き綴っています。

芸術の条件 それは絶望 -タルコフスキー『ストーカー』-

先週今週と、久々にタルコフスキーの作品を観る機会があった。以前に何度か観たことのあるものもあれば、初見の作品もあったのだが、今日初見で観た『ストーカー』がとても感慨深い作品であった。よって、それを忘れないうちに記録しておこうと思った次第である。

タルコフスキーという人は、本当に美しい映像を撮る人である。どのシーンを切り取っても、まるで一枚の絵画のようであり、それが映像の詩人と呼ばれる所以であろう。

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タルコフスキーの作品に共通して言えること、それは、物語性の希薄さであり、描かれ方が常に象徴的ということである。ハリウッド作品のような派手な演出や展開は一切ない。こちらにも人生の提出を要求してくるインタラクティブな作品ばかりである。受動的に、ただ物語に身を浸すことを求める人には向かないだろう。

そのせいもあってか、難解だという意見が結構あるようだが、そんなことはない。こちらが何かを問いかければ、必ず応えてくれる作品ばかりである。黒澤明は言う、「タルコフスキーは難解だと言う人が多いが、私はそうは思わない。タルコフスキーの感性が並外れて鋭いだけだ」と。

 

そして今日取り上げる作品は、『ストーカー』である。

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毎度のことながら映像の美しさは勿論、色んな解釈が出来そうな作品であると感じた。160分という長さも一瞬で過ぎてゆく。以下、簡単なストーリーを。

 とある小国に、謎に包まれた“ゾーン”と呼ばれる地域があった。立入禁止になっていたが、そこには、人間にとって一番大切な望みがかなえられる“部屋”があるというのだ。そして“ゾーン”に踏み込むという大胆な行動をとる者が出現した。案内役は「ストーカー」と呼ばれている男だ。止める妻を説得し、今“ゾーン”へと出発するストーカー。「作家」と「教授」と名乗る二人と待ち合わせて“ゾーン”に向かう三人。境界地帯に待機していた警備兵の銃弾をくぐり“ゾーン”への侵入を果たす三人。そこにはこの“ゾーン”を探るためにこれまでに送り込まれた軍隊の戦車や人間の死骸が無残にさらされている。水に溢れた“乾燥室”を通り“内挽き器”という恐しいトンネルをくぐり、ついに“部屋”にたどりついた。しかし、踏み込む瞬間、教授が、自分で造った爆弾を取り出し、“部屋”が犯罪者に利用されることを避けるために、“ゾーン”爆破を目的としていたことを告白した。“ゾーン”を支えに生きてきたストーカーはその爆弾を取りあげようする。そのストーカーの態度に疑問を感じる作家。彼ら自身“部屋”に対する考えが、徐々に変化をみせる。“部屋”は、いったい彼らにとって、いかなるものであったのだろうか。自ら自身にもわからないのである。(Movie Walker)

 ストーカーとは、そこに辿り着けば願いが叶えられるという「ゾーン」への案内人のことである。そして、案内する行程の中で分かってくることは、ストーカーはゾーンに対し、愛と畏怖の念を抱いているということ。そのため、「作家」と呼ばれる男がゾーンにおいて武器を使おうとしたり、酒を飲もうとすると必死の形相でそれを止めようとする。「罰が当たるから」と。そして目の前に見える目的地へも、あえて遠回りのルートを選びながら進んで行く。彼は「遠回りのほうが近道ということもある」と意味深に語りながら。

途中「肉挽き器」と呼ばれる不気味な細長いパイプ状の通路を通る。ストーカーが、「先生」と昔呼んでいた先輩ストーカーの弟が、過去にそこで殺されたということを語る。

ゾーンにあるのは、絶対的な不条理さと、圧倒的な深淵さである。「ゾーンには複雑な罠があり、その罠に掛かれば命はない」さらに「来た道を後戻りすることも許されない」とストーカーは言う。

そして私が一番気になったこと、それは「ストーカーは案内人という役割であるにも関わらず、教授や作家より前を歩く事は一切ない」ということである。最初から最後まで、常に一番後ろに立ち、進むべき道を後ろから教えるだけなのである。

 

これらのことから私が考えたこと、それは、

「ストーカーとは''芸術家''のことではないだろうか」ということである。

人間を真理へと導く、それが芸術家の使命である。

芸術とは人間にとって絶対的に必要なものなのであろうか?答えは「殆どの人間にとって必要ではない」いや、「なくても全く困らないもの」であろう。何の迷いもなく、日常を安定的に送れている者にとって、芸術の必要性など全く以って皆無である。

しかし、それ無しでは生きられない人間、芸術の必要性に心を蝕まれてしまった一部の人間にとって、それは命を懸けても闘い取らねばならないもの、それが芸術なのである。そしてその人間たちをその世界まで導く水先案内人、それがストーカー(芸術家)なのである。彼らは、決して前に立ち先導はしない、進むべき道を示してくれるだけである。それは、己の力で闘い取らねば意味がないことを知っているゆえにである。

だが、なぜ芸術には案内人が必要なのか。それは、芸術というのは毒や痛みを多分に含んだものだからである。岡本太郎さんの言葉にこんなものがある。「芸術は綺麗であってはいけない」「綺麗と美しいは違う。美しいものというのは時に人に痛みを与える。特に惰性的な人間には」つまり、普通の人間が最初触れるには、ナマの芸術というのは毒や痛みが濃すぎるということ。そして芸術家は、最初それをある程度中和した状態にしてその耐性のない者たちに提示してあげる必要がある、つまりは案内してあげることが必要なのである。

ゾーンへの道のりは厳しい、そこにあるのはただ「絶対的な不条理さ」と「圧倒的な深淵さ」である。その環境に対し愛と畏怖の念を以って向き合う。

印象的なシーンがある。道中皆で仮眠を取るシーンがあるのだが、ゆっくり休める場所は他にいくらでもあるにも関わらず、ストーカーは、あえて周りを水に囲まれた窮屈な孤島のような場所で横になるのである。まるで厳しい環境を自ら選ぶように。

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真理を知るということは、とても勇気がいることである。最終的に「願いが叶う部屋」へとやっと辿り着いたにも関わらず、教授と作家は部屋に入ろうとしない。何故か?

実は、先述の「先生」と呼ばれる、弟をゾーンに殺された先輩ストーカーが以前、弟を蘇らせようとして部屋へと入ったのだが、ゾーンが彼に与えたのは大量の札束だった。そしてその一週間後、先生と呼ばれるストーカーは首を吊って自殺した。

ゾーンが叶えるのは「願い」ではない、その人間が「心の奥底で本当に望んでいるもの」である。それを知ってしまったことによって、彼は自分に絶望して自殺したのだ。つまり、ゾーンという芸術への途上を乗り越え、望みが叶う部屋という場所において芸術作品を完成させるということ、それはつまり、本当の自分自身を赤裸々に映し出す魔法の鏡という芸術作品を完成させるということなのである。

シェイクスピアは、「芸術とは自然に向けて掲げられた鏡だ」と言った。ここでの自然(nature)は、本性(nature)と同義であり、芸術作品というのはその人間の内面を、赤裸の現存として映し出すのである。「絶対的な不条理さ」と「圧倒的な深淵さ」というゾーン(芸術)の特性はまさに自然そのものであり、自然もまた、「絶対的な不条理さ」によって惜しみなく奪い、「圧倒的な深淵さ」によってまた惜しみなく与う。この、自然=芸術=真理という構図は、自然を「造られて在るもの(神によって)」ではなく「成り出でて在るもの(神と自然は共に在るもの)」と捉える我々日本人には理解しやすい考え方ではないだろうかと思う。

つまり、教授と作家は、「望みを叶えるということは勇気の要ることだ」というその話を、ストーカーから聞かされたことによって、結果その部屋へ入ることを躊躇ったのである。

「いま望んでいることは、本当に自分が心から望んでいるものなのか」

これは現代社会でも十分に効果を持つテーマなのではないだろうか。

本音を誤魔化し誤魔化し生きているのが人間という生き物なのであり、心を見て見ぬフリをして生きている多くの人間にとって、真理と真正面から向き合うということは非常に勇気がいることなのだ。

最終的には、作家と教授が「ゾーンなんてハッタリじゃないのか」と言い出し、誰も部屋には入らない。案内が徒労に終わったストーカーは、自宅へ戻り思わず妻に愚痴を漏らす。

「ゾーンを誰も理解しない」「誰もあの部屋を必要としなくなることが怖い」「俺は虚しい努力をしているのだろうか」と。

これらの台詞、モノ作りをする人間であれば誰しも抱えたことのある葛藤ではないだろうか。そして、ここからの奥さんの台詞が何とも温かい。

 

ストーカー「もう誰も連れて行かない」

妻「私が一緒に行くわ」

ストーカー「だめだ」

妻「どうして?」

ストーカー「お前まで失いたくない...」

ーそして妻の独白ー

「母は''ストーカーなんて永遠の囚人よ''と結婚には大反対でした。私は幸せになれると信じました。苦労も承知の上で。でも単調な生活よりマシでしょ?後悔はしてません、一度も。それが私たちの人生です。苦しみのない生活なんて虚しいだけです。苦しみのない所に幸せはないんですから」...

 

これらを踏まえた上で作詞の話をしようと思ったのだが、長くなったのでいつかまた。

最後に、ゾーンへの道中で、教授と作家がストーカーに「ゾーンはどういう人間を受け入れるのか」と訊ねた時のストーカーの言葉が印象的だったのでその言葉を。

「私もよく分かりませんが、ゾーンは絶望した人間を通すように思います。善悪に関係なく、不幸な者を...」

芸術の条件、それは絶望。

  

夏目漱石『こころ』再考

週に3回は本屋に通うのが私の習慣だが、先日こんなコーナーの前で、ふと足を止めた。

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2017年2月9日が漱石の生誕150周年にあたるため、その記念特集である。そしてこのコピーに目を引かれた。

漱石はいつも新しい」

良い文学作品とは何だろうと考えた時、この「いつも新しい」というのはその一つの条件であると思う。単純で表層的な作品というのは、いつ読んでも読み手に対して同じ感慨しか与えない。誰かが死んだ、悲しい、そして涙する。そして読みはそこに留まる。しかし、良い文学作品というのは、年齢を重ねて読み直した時、常にまた新たな感慨を与えてくれる。読み手が重ねた年齢や経験を通して読み直した時、その読み手の読みにまた斬新性をもって応えてくれるのである。言い換えるならば、作品と読み手、常にその相互の主体性の衝突に耐え得る作品、それが良い文学作品であると思う。何歳で読もうが、毎回新しい発見をもたらしてくれるということ、それはつまり、人間の根底的でラディカルな問いかけを多分に含んだものである故だと言えるのではないだろうか。

本屋から帰宅し、ふと漱石の『こころ』を再読してみたのである。古来より教科書にも採用されるこの組み尽くされた作品ではあるが、私は改めて衝撃を受けた。初めて読んだのは恐らく18歳の頃であったと思うが、当時の私には見えなかった、また新しい様相を呈してくれた。

 

誰もが読んだことのある作品であろうと思われるが、一応簡潔なあらすじを記しておこうと思う。

 

夏休みの鎌倉で、主人公の(私)は(先生)と呼ばれる人物と出会う。その後、東京へ帰っても先生と私は交流をするようになった。

先生は基本的に、私に対しても奥さんに対してもどこかよそよそしい。自分の気持ちを読まれることを極端に避けているように見える。

交流を続けるうちに、先生が毎月誰かの墓参りをしていることを知るが、それが誰の墓であるのか、先生は教えてくれない。

先生の奥さんから、大学時代の親友が自殺してしまってから先生が変わってしまったことを教えられる。後に、それが先生の奥さんに想いを寄せていた友人の(K)という人物の墓であったこと、そしてその友人を裏切って先生と奥さんが結婚することにより、その友人(K)を自殺に追い込んでしまったということを知る。

己のエゴを貫き、友人(K)を自殺へ追い込んだことへの罪悪感に苛まれた先生は、主人公の(私)に遺書を残して自殺する。

  

初めて読んだ18歳の頃、私は多くの解説書等が記すような額面通りの感想を抱いた。友人を裏切り己のエゴを貫いた結果、奥さんこそ手に入れたものの、その罪悪感に苛まれて結果的に自殺してしまった男の物語。この三人の人間関係がテーマだと思っていたのだが、今回読んで全く違う感想を抱いた。

それは、この物語は三人の人間の三角関係を描いたものではなく、一人の人間の内面的葛藤を三人の人間関係という構図によって描いた物語なのではないか、ということである。

漱石が生きた、明治という時代に思いを巡らせた。長い封建的な時代が終わり、近代的な個というものの重要性が謳われ始めた時代。それまでの絶対的な君主はいなくなり、これからは己が己の君主にならなければならないという、西洋的な近代的個人主義が打ち立てられようとしていた時代である。デカルト以降の近代という時代において、最も重要視されたものは何か。理性である。それまでの君主に変わって、理性によって己を律していかなければならない時代がくる。当時世界一の文明先進国であったイギリスへと留学し、近代という時代の到来を肌で感じ、尚且つ先見の明に優れた漱石には、そういう未来が見えていたのではないだろうか。

 

「精神的向上心のない者は馬鹿だ」という台詞に表されるように、友人の(K)という人物は「理性」的存在として考えることができる。

道のためには凡てを犠牲にすべきだと云うのが彼の第一信条なのですから、摂慾や禁欲は無論、たとい慾を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。 

 対称的に、Kからお嬢さん(後の奥さん)を愛しているという告白を受け、様々な手立てを使ってそれを阻止しようとする若かりし頃の先生という人物は、「狂気」的存在として考えることができる。

Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事が出来るだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。〜自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。〜Kの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。

 つまりこの物語のメタファーは、狂気(先生)によって理性(K)が殺されれば、その罪悪感が募り狂気(先生)も最終的に滅びる、というものである。そのような意味で、この物語は一人の人間の内面、理性と狂気が葛藤し続ける一人の人間の「こころ」の在り方を、男女の三角関係という図式で描かれたもののように私には思えるのである。

それまでの封建制度において君主の命令は絶対であり、そのためならば命さえ捨てるというのは狂気以外のなにものでもなく、いうなればそれは、これから迎えるであろう理性の時代とは対称的なものである。近代的個人主義は、君主による統治に代わって個人に自由というものをもたらすが、それは理性によって己を統治することができなければ、人間は簡単に崩壊してしまう時代が来るということをも意味する。

そのような警句を込めたものとして、漱石はこの『こころ』を書いたのではないかという気がしてならないのである。

 

夏目漱石とは不思議な作家である。私は国内作家であれば太宰や谷崎が好きだが、これらの作家は必ず好き派か嫌い派に分かれる。しかし漱石に関しては、「嫌いだ」という人をあまり聞いたことがない。(文学研究者になった友人が、「あのもったいぶった話の運びが好きになれない」と言っていたことがあったが)

そのような形式的な観点で見ると、文章が難しいという話も偶に聞くが、漱石に関しては後期のものに確かにそのきらいがある気がしないでもない。なので、『三四郎』『それから』『門』という三部作でいうなら、『三四郎』あたりは『門』の時期に比べればまだ圧倒的に読みやすいので、もし興味を持たれた方はその辺りから読むのもいいと思う。

 

ちなみに、私は理性などクソくらえだと思っているタイプの人種である。

たまには尋常なお話でも

ホームページのほうにもブログはあるわけだが、こちらでも始めてみることにした。

何故「サブログ」かというと、文字を紡ぐということに対して結構な凝り性ゆえ、ちゃんとしたブログを書こうと思うとなかなかに腰が重くなってしまっているという事実があり、自分の頭の中を整理するために、何の気負いもなく思ったことをつらつらと書ける場所があったらいいかもな、と思った故である。

なのでこちらでは、文字数制限のないTwitter的なノリで、ただ日々思うことをソコハカトナク書き綴っていこうと思う。

ホームページのブログではふざけたことしか書いていないが、こちらは多少まともなお話になると思われる。