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SoflanDaichiのサブログ-ちょっとまじめなInsania-

文字数制限のないTwitter的なノリで、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書き綴っています。

夏目漱石『こころ』再考

週に3回は本屋に通うのが私の習慣だが、先日こんなコーナーの前で、ふと足を止めた。

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2017年2月9日が漱石の生誕150周年にあたるため、その記念特集である。そしてこのコピーに目を引かれた。

漱石はいつも新しい」

良い文学作品とは何だろうと考えた時、この「いつも新しい」というのはその一つの条件であると思う。単純で表層的な作品というのは、いつ読んでも読み手に対して同じ感慨しか与えない。誰かが死んだ、悲しい、そして涙する。そして読みはそこに留まる。しかし、良い文学作品というのは、年齢を重ねて読み直した時、常にまた新たな感慨を与えてくれる。読み手が重ねた年齢や経験を通して読み直した時、その読み手の読みにまた斬新性をもって応えてくれるのである。言い換えるならば、作品と読み手、常にその相互の主体性の衝突に耐え得る作品、それが良い文学作品であると思う。何歳で読もうが、毎回新しい発見をもたらしてくれるということ、それはつまり、人間の根底的でラディカルな問いかけを多分に含んだものである故だと言えるのではないだろうか。

本屋から帰宅し、ふと漱石の『こころ』を再読してみたのである。古来より教科書にも採用されるこの組み尽くされた作品ではあるが、私は改めて衝撃を受けた。初めて読んだのは恐らく18歳の頃であったと思うが、当時の私には見えなかった、また新しい様相を呈してくれた。

 

誰もが読んだことのある作品であろうと思われるが、一応簡潔なあらすじを記しておこうと思う。

 

夏休みの鎌倉で、主人公の(私)は(先生)と呼ばれる人物と出会う。その後、東京へ帰っても先生と私は交流をするようになった。

先生は基本的に、私に対しても奥さんに対してもどこかよそよそしい。自分の気持ちを読まれることを極端に避けているように見える。

交流を続けるうちに、先生が毎月誰かの墓参りをしていることを知るが、それが誰の墓であるのか、先生は教えてくれない。

先生の奥さんから、大学時代の親友が自殺してしまってから先生が変わってしまったことを教えられる。後に、それが先生の奥さんに想いを寄せていた友人の(K)という人物の墓であったこと、そしてその友人を裏切って先生と奥さんが結婚することにより、その友人(K)を自殺に追い込んでしまったということを知る。

己のエゴを貫き、友人(K)を自殺へ追い込んだことへの罪悪感に苛まれた先生は、主人公の(私)に遺書を残して自殺する。

  

初めて読んだ18歳の頃、私は多くの解説書等が記すような額面通りの感想を抱いた。友人を裏切り己のエゴを貫いた結果、奥さんこそ手に入れたものの、その罪悪感に苛まれて結果的に自殺してしまった男の物語。この三人の人間関係がテーマだと思っていたのだが、今回読んで全く違う感想を抱いた。

それは、この物語は三人の人間の三角関係を描いたものではなく、一人の人間の内面的葛藤を三人の人間関係という構図によって描いた物語なのではないか、ということである。

漱石が生きた、明治という時代に思いを巡らせた。長い封建的な時代が終わり、近代的な個というものの重要性が謳われ始めた時代。それまでの絶対的な君主はいなくなり、これからは己が己の君主にならなければならないという、西洋的な近代的個人主義が打ち立てられようとしていた時代である。デカルト以降の近代という時代において、最も重要視されたものは何か。理性である。それまでの君主に変わって、理性によって己を律していかなければならない時代がくる。当時世界一の文明先進国であったイギリスへと留学し、近代という時代の到来を肌で感じ、尚且つ先見の明に優れた漱石には、そういう未来が見えていたのではないだろうか。

 

「精神的向上心のない者は馬鹿だ」という台詞に表されるように、友人の(K)という人物は「理性」的存在として考えることができる。

道のためには凡てを犠牲にすべきだと云うのが彼の第一信条なのですから、摂慾や禁欲は無論、たとい慾を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。 

 対称的に、Kからお嬢さん(後の奥さん)を愛しているという告白を受け、様々な手立てを使ってそれを阻止しようとする若かりし頃の先生という人物は、「狂気」的存在として考えることができる。

Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事が出来るだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。〜自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。〜Kの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。

 つまりこの物語のメタファーは、狂気(先生)によって理性(K)が殺されれば、その罪悪感が募り狂気(先生)も最終的に滅びる、というものである。そのような意味で、この物語は一人の人間の内面、理性と狂気が葛藤し続ける一人の人間の「こころ」の在り方を、男女の三角関係という図式で描かれたもののように私には思えるのである。

それまでの封建制度において君主の命令は絶対であり、そのためならば命さえ捨てるというのは狂気以外のなにものでもなく、いうなればそれは、これから迎えるであろう理性の時代とは対称的なものである。近代的個人主義は、君主による統治に代わって個人に自由というものをもたらすが、それは理性によって己を統治することができなければ、人間は簡単に崩壊してしまう時代が来るということをも意味する。

そのような警句を込めたものとして、漱石はこの『こころ』を書いたのではないかという気がしてならないのである。

 

夏目漱石とは不思議な作家である。私は国内作家であれば太宰や谷崎が好きだが、これらの作家は必ず好き派か嫌い派に分かれる。しかし漱石に関しては、「嫌いだ」という人をあまり聞いたことがない。(文学研究者になった友人が、「あのもったいぶった話の運びが好きになれない」と言っていたことがあったが)

そのような形式的な観点で見ると、文章が難しいという話も偶に聞くが、漱石に関しては後期のものに確かにそのきらいがある気がしないでもない。なので、『三四郎』『それから』『門』という三部作でいうなら、『三四郎』あたりは『門』の時期に比べればまだ圧倒的に読みやすいので、もし興味を持たれた方はその辺りから読むのもいいと思う。

 

ちなみに、私は理性などクソくらえだと思っているタイプの人種である。